品川真一
イソップ童話を考えた人って凄いなと思う品川です。今日はオオカミ少年についてカバチをたれてみようと思います。
ある村に羊飼いの少年がいて、刺激のない日々のうっ憤を晴らすべく、オオカミが来た!と叫びながら村を走った。
すると村人たちは慌てて家の扉を閉めて隠れた。
しばらくして扉を開けてみると少年が嘲笑っていていたずらだったことを知った。
後日、また少年がオオカミが来た!と叫んで同じように村人たちは扉を閉めて身を隠した。けれどもはやりオオカミはいなかった。
さらに後日、またまた少年がオオカミが来たぞ!と叫んだが、誰も扉を閉めなかった。そして村人たちは全員オオカミにころされてしまった。
というような話だったと思います。多少の違いはご勘弁を。。
この童話が伝えたいことは、嘘をついていたら信用されなくなるよ、だから噓をついたらだめだよという教訓だと言われてますね。
私の解釈はちょっと違うんですよ。
扉を閉めるかどうかは村人の選択です。扉を閉めなかったのは村人の選択なのだから、ただ少年が悪いで終わらせていいのか?という(笑)
詳細は書いてないのですが・・・
普通最初に少年のいたずらだったことを知った村人は注意したと思うんです。にも拘わらずもう一度騙されてしまった。つまり、一度騙されたのに二度目も騙されたという事はこの時点ではまだ少年を信用していたわけですよね。
でも二度も騙されたらそりゃ怒るでしょ。村人は一度目よりも厳しく少年を怒り飛ばしたはずです。
私はこの時点で、少年は改心したのではないか?と思っています。
だから改心した少年は村のためを思って本当のことを言って回った。オオカミが来たぞ!今度は本当だぞ!と。
でも村人たちは少年のことを信用していなかった。だから扉を閉めない選択をしてオオカミにころされてしまったと、解釈をしています。
少年を主体に考えると、シンプルに嘘をつくと信用されなくなるよという教訓になりますが、村人も主体に含めると違ってきます。
もしも少年が二度目に怒られたことで改心していたとしたら、村人たちは少年を信じてやるべきだったのではないでしょうか?
そもそも叱るということや、嘘をついてはいけないよという教訓を教えてやりたいのであるならば、教える側は最後までスタンスを替えてはいけないと思うのです。
つまり、嘘をつくのもいけないが、人を信用しないこともいけないと思うわけです。
確かに期待を裏切られ続けたら信用度は下がりますし、期待値も下がっていきます。でも教育している側としては0にはなりません。
東大受験コースの先生が生徒に教えながら、こいつらは東大合格は無理だと思っているのかって話です。
1%でも、あるんですよ。それがわずかな期待というものです。
オオカミ少年のその後について考えてみると、嘘をついて叱られて改心して行動したのに信用して貰えなかった少年は、その後どうなったんでしょうかね?
私がその少年なら、こうなったでしょう
グレます(笑)
なんや?忠告を聞いて改心したのに俺の事信じてなかったじゃん?だから大人は信用できないんだよ!と、何かのドラマのシーンにあるようなことを言ったと思うんです。
会社を経営していて思う事があります。私は社員に対して100%なのに、彼らは違うと。私は社員を裏切らないのにいつも裏切るのは彼らの方だと思っています。
裏ぎられて裏切られて、それでもチャンスを与え続ける。それでも裏切られる(期待を)、そうしたものだと思っています。
二度裏切られた社員を100%信用していないか?といえばそんなことはありません。100%信用できなくなった時はクビにしますが、切らないという事はまだ数%の期待が残っているということです。
社員をオオカミ少年だとすれば私は村人。裏切られても裏切られても、教育する立場である以上は0になってはいけないし、1%であっても期待を持っていてやらねばならないと思っています。
そして、私がこう思っていても、こうしてブログに書いたとしても、伝わらないものだと分かっています。
私という存在を無くしてから初めて気が付く・・・人間は愚かな生き物だとお釈迦様が言ってます(笑)
思えば子供の頃の私はオオカミ少年だったな・・・と思いますが、今は村人ですね。
ではまた~