この度の杉原ハウスの修復プロジェクトに賛同して下さった関係者の方々に心からお礼申し上げます。
クラウドファンディングや募金を頂いた方の全員のお名前は、杉原祈念館に記帳され永久に保存されます。
※募金は私たちの旅費などには一切使っておりません。全額祈念館へ寄付させていただきました。
このページは海外塗装ボランティアの活動報告になります。シリーズになっておりますので、ご興味のあられる方のみお読みくだされば幸いです
杉原千畝ハウス修繕プロジェクト
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これまで国内で100ヶ所にも上る塗装ボランティアを行ってきた塗魂ペインターズ。私も大義を感じる案件には県外まで足を運んで来ましたが、海外は今回が初。いえ最初で最後だと思います。
その地が今まで映画でしか知らなかったリトアニアの、あの杉原千畝ハウスだとは・・・今振り返ってみても、とんでもないことをしたなと思います(笑)
1週間会社を空ける
これまで1週間会社を空けたことは数回ありますが、それは国内での出張でした。しかも仕事なので出張してもお金を頂けましたが、今回は1円にもならないどころか、飛行機代・宿泊代・飲食代などすべて手弁当・・・正直、当初は行くかどうか迷いましたね。
でも行くことに決めた理由は、もう二度とこんな名誉なことはないと思ったからです。
自分の人生の中で、これまで色々なことがありました。そしてこの先も色々なことが待っていると思いますが、その中でも大きな出来事のひとつなのではないかと思ったこと。
でも迷っていました。それもそのはず、行けば数十万の赤字。広島のお客様を放って行くことになる・・・なかなか決断できませんでした。
そんな時、思いもよらない言葉が私の背中を押すことになりました。
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行ってきたらいいじゃないですか
家族とスタッフがそう言ったのです。これには驚きました。
「でも、もし1週間の間に何かあっても帰れないぞ?いままでは国内出張だったから、最悪の場合飛んで帰ることも出来たけど、今回はプロジェクトが終わるまで帰れない。大丈夫か?」と返答しました。
【国内も海外も同じ1週間でしょ?大丈夫でしょ、何かあれば我々で対応しますよ。どうぞ行ってきてください。】
この言葉がプロジェクトに参加しようと決断できたきっかけでした。つまり今回のプロジェクトは私個人が参加したのではなく、家族もスタッフも協力業者も賛同してくれ、私が代表して行って来ただけ、全員で参加したのです。
このプロジェクトの様子はNHKでも何度も放映されました。その中で、なぜ参加しようと思ったのか?というインタビューを受け、3分ほど語ったのですが、残念ながらカットされてました(笑)
参加しようと思った理由
私は広島から参加したたったひとりの人間です。杉原千畝が命のビザを発給したのは第二次世界大戦中です。
当時の日本は日独伊三国同盟を結んでいた立場にもかかわらず、ナチス・ドイツの迫害によりポーランド等欧州各地から逃れてきた難民たちを逃がすためにビザを発給し続けた。
政府の方針に背いたわけです。
もしもそのことがバレたら、自分の命はもちろん家族の命も危ぶまれることは容易に想像できたはず。それでも6,000人ものビザを発給した、おそらく千畝は死を覚悟していたのではないかと思うのです。それでも、千畝はこれが自分の使命だと思い行動したのではないかと。
結局、その戦争で5年後、広島は原爆を投下され、日本は敗戦します。
繋がっている
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原爆も命のビザも、ひとつの歴史の中で繋がっています。
そして千畝がビザを発給した場所が、老朽化で今にもその形を無くそうとしている。
何代も子孫に語り継いでいかなければならないこと。
実際に足を運べる場所として、後世に残して行かなければいけない場所だから、今回の修復ボランティアに参加しようと思いました。